なぜ退屈なのに中毒なのか
映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、退屈と妄想が交錯する異色のA24作品だ。
なぜ“退屈なのに中毒”なのか。
多くの人が最初に抱く感想は「長い」「何も起きない」だ。主人公サムは無職で、日々をだらだらと過ごし、ただ歩き、覗き、暗号を解こうとするだけ。事件が派手に動くわけでもなく、ストーリーは妙に間延びして見える。
ところが、この退屈さが逆に効いてくる。人は暇になると、勝手にそこに意味を見出そうとする生き物だ。看板や歌詞や雑誌の切れ端――全部が暗号のように見え、「何かのヒントなんじゃないか」と考え始める。退屈があるからこそ、妄想が生まれる。
サスペンス映画なら本来、伏線を出してすぐに答えを返すテンポが快感になる。だがこの映画は違う。ヒントをばらまく一方で、なかなか解決を与えない。観客は「つながっているはずだ」と思い込み、目を凝らし続ける。イライラとワクワクのあいだで頭がフル回転し、気づけば映像に貼りついてしまう。
しかもラストまで観ても、多くの謎は回収されない。普通なら欠点に見える部分が、逆にこの映画の中毒性を強めている。「犬殺しは結局どうなった?」「フクロウの女は誰だ?」――観終わった後も考え続けてしまうのだ。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』が与える報酬は「スッキリ解決」ではない。観客に「考え続ける時間」を残すことそのものが快楽になっている。退屈に見える時間が妄想を生み、未解決の謎が思考を外に広げていく。だからこの映画は、退屈なのに中毒になる。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』の概要と公開背景
監督は『イット・フォローズ』で世界を驚かせたデヴィッド・ロバート・ミッチェル。主演はアンドリュー・ガーフィールド、ヒロインのサラ役をライリー・キーオが演じている。上映時間は2時間19分。ジャンルはネオノワール、ミステリー、サスペンス、コメディ、ホラー……つまり一言では分類できない作品だ。
この映画が最初に世に出たのは2018年のカンヌ国際映画祭。だが評判は芳しくなかった。批評家からは「情報を詰め込みすぎ」「まとまりがない」といった指摘が目立ち、配給のA24は作品を再編集。全米公開は延期され、最終的に2019年に限定公開されることになった。
興行収入は全世界でわずか約200万ドル。A24配給作の中でもかなり小規模な成績にとどまった。ただし低調な数字や酷評が、そのまま“失敗”を意味するわけではない。Rotten Tomatoesでは批評家スコア58%、観客スコア59%と、賛否がほぼ真っ二つに割れている。いわゆる「divisive(分断型)」の映画だ。
公開当時の評価の分かれ方は象徴的だった。物語の混沌や暗号めいた小ネタに呆れた人もいれば、「こんな映画を待っていた」と熱狂した人もいた。まさにカルト映画の誕生である。
主人公サムが体現する“停滞の時間”
主人公サムは33歳。ロサンゼルスのシルバーレイクに暮らしながら無職で、家賃も滞納し、退去を迫られている。毎日はだらだらと過ぎていく。やっていることといえば、双眼鏡で隣人を覗いたり、街を歩き回ったり、オタク的な暗号解読にのめり込むことばかりだ。物語の序盤から彼の“暇人ぶり”は徹底的に描かれている。
普通の映画なら削られるような「無意味な時間」が、本作ではそのまま描かれる。テンポが悪い、間延びしている、と感じるその部分こそ、観客に“停滞”を追体験させるための仕掛けになっている。
サムという人物は、社会のどこにも属していない存在だ。定職がなく、母親から心配の電話を受ける点では“子供”に見える。一方で、女性との関係に不自由はしていないため“大人”でもある。セレブでもなく、完全なホームレスでもない。常に境界のどこかにいて、はっきりした位置づけを持たない。
この“中途半端な立ち位置”と“停滞感”が、映画全体の空気を支配している。サム自身が答えを持たない存在だからこそ、観客も一緒に漂うしかなくなる。『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、主人公の停滞そのものを映画のリズムに変えている。
退屈が生む“過剰な意味づけ”
サムの日常は退屈そのものだが、その退屈さが彼を“意味探し”に駆り立てる。何気ない落書きや雑誌の切れ端、ポップソングの歌詞、看板に映る女優の顔──どれもが暗号や伏線に見えてくる。サムはそれらをつなげて「この世界には裏がある」と思い込み、妄想を広げていく。
物語はほとんど、サムが拾った情報によって進んでいく。「犬殺しに気をつけろ」という落書きを見つければ犬殺しの噂が現実になり、雑誌で読んだ“フクロウの女”は実体として目の前に現れる。ファミコン雑誌やロックバンドの歌詞まで、サムの世界ではすべてが陰謀のピースになる。
観客もまた、サムと同じ立場に置かれる。映像にちりばめられた小物や断片を目にするたび、「これは何か意味があるに違いない」と考えてしまう。映画が観客に仕掛けているのは“謎解き”ではなく、“過剰に意味を読んでしまう体験”そのものだ。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』は伏線を回収する映画ではない。むしろ伏線を過剰に積み重ね、観客をパラノイア的な思考に追い込む映画だ。退屈がもたらす「意味の過剰生産」こそが、この作品のエンジンになっている。
ポップカルチャーと陰謀論の接点
サムの妄想は、街のノイズを越えてポップカルチャーそのものにまで広がっていく。映画や音楽、広告、ゲームに隠されたサインを読み解くことが、彼の探索の中心になる。雑誌の片隅に書かれた数字も、任天堂のゲームに出てくる記号も、すべてが巨大な秘密の証拠に見えてくる。
その象徴が“ソングライター”と呼ばれる謎の老人だ。彼はニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」を含む、あらゆるポップソングを自分が金のために書いたと告白する。人々を夢中にさせてきた音楽は、感動のためではなく、単なる商売の産物だったというのだ。
サムは激昂し、カート・コバーンのギターで彼を叩き殺す。この行動は、スターに届かなかった自分を慰める衝動のようにも見えるし、作られた文化そのものを否定する暴発のようにも見える。
ここで示されているのは、私たちが熱狂してきたカルチャーが、裏では巨大な仕組みによって作られた商品にすぎなかった、という冷酷な現実だ。サムは陰謀論にのめり込んでいるようでいて、同時に“作られた現実”に絡め取られている。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、カルチャーを愛してきた人間が、その裏側に潜む虚しさを直視してしまったときの物語でもある。
「上」と「下」のモチーフ構造
『アンダー・ザ・シルバーレイク』には、繰り返し登場する視線の方向がある。スカンクが上から落ちてくる、空に打ち上がる花火、天文台や巨大な看板。サムの意識は常に「上」に向けられている。
しかし、映画が示す“真実”は逆だ。答えは空の上ではなく「下」に隠されている。サムが辿り着いたのは、億万長者たちが自ら地下に生き埋めになり、別の世界へ“上昇”しようとするカルトの存在だった。地上から消えたセレブたちは、実は地下で新しい楽園を夢見ていたのだ。
この構造はひねくれた皮肉になっている。人々が空に視線を奪われているあいだに、本当に重要なことは地面の下で進行している。上を向くほど、下に隠されたものが見えなくなる。
映画のタイトルにある「アンダー(下)」は、この仕掛けをそのまま示している。見上げることをやめて、足元の暗闇を覗き込んだ者だけが、シルバーレイクの真実に触れることができる。
サムとサラ ― 未練と決別の物語
サラの失踪を追う旅は、サムにとって単なるミステリーではない。彼が抱えてきた未練を辿る旅でもある。サラはただの美女ではなく、サムが過去に関わった“成功した女優”の幻影と重なって描かれている。彼女を追うことは、取り残された自分の人生を追い直す行為でもある。
サムがたどり着いた答えは残酷だ。サラは生きているが、地下で大富豪とともに暮らす存在になっていた。モニター越しに再会した彼女は「間違ってた?」とつぶやきながらも、こちら側の世界を選んでしまったことを受け入れている。サムにとってサラは、もう同じ世界にいる人間ではなくなったのだ。
この再会は、サムに決別を迫る。彼は未練を断ち切り、彼女を追うのをやめる。代わりに冒頭で目を逸らしていた隣人の女性のもとへ向かい、自分の部屋には「静かにしていろ」という暗号を残す。暗号を解く側から、それを生み出す側へ。受動的に意味を探すだけの存在から、自分の生を選び取る存在へと移っていく。
サラはサムにとって“過去の象徴”であり、同時に“憧れの失敗”でもあった。彼女との決別は、現実を受け入れ、停滞を越えていくための通過儀礼になっている。
犬殺しとオマージュ
物語の背景にちらつくのが「連続犬殺し」という奇妙なモチーフだ。誰が何のために犬を殺しているのかは、最後まで明かされない。単なる街の噂にも見えるし、事件のカモフラージュのようにも映る。
一部の考察では、犬殺しは“真実から目を逸らすための煙幕”だとされる。観客もサムも気味の悪い事件に意識を取られているあいだに、別の仕組みが動いているのだ。
もっと突っ込んだ見方では、サム自身が犬に強いトラウマや嫉妬を抱えていて、彼こそが犬殺しではないかという説もある。ホームレスの王から「ビスケット」について問われ、涙を流す場面は、その可能性を強く示唆している。
そして、この犬殺しを含めた“覗き見”や“消えた女を追う”という構図は、ヒッチコック映画へのオマージュとして機能している。双眼鏡で隣人を覗くサムは『裏窓』を、消えた美女を追いかける展開は『めまい』を想起させる。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、犬殺しという答えの出ないモチーフを放り込みながら、同時に映画史への引用で観客を翻弄する。謎とオマージュのレイヤーが積み重なり、現実と虚構の境界線をさらに曖昧にしている。
サムの変化と物語の帰結
物語の終盤、サムはサラの失踪の真相に触れながらも、すべてを解決することはできない。犬殺しの正体も、散りばめられた暗号の意味も、最後まで宙づりのまま残される。だがそれは欠陥ではなく、映画の狙いそのものだ。
サムの旅は“謎を解く物語”ではなく、“どう生きるかを選ぶ物語”にすり替わっていく。未練を断ち切り、隣人の女性の部屋へ移った彼は、自分の部屋に「静かにしていろ」という暗号を残す。これは、暗号を読み解く側から、それを生み出す側に回るという宣言でもある。
ラストで管理人と警察官に部屋を追い出される場面、サムは不思議な笑みを浮かべる。社会のルールに従って動く彼らを見下ろすように、静かに笑う姿は、自分だけが世界の“裏”を知った者の余裕にも見える。
この結末が示すのは、「答えが出ないことを受け入れる」という態度だ。無意味に思える日常、未解決の謎、曖昧な現実。それらを“意味づけ”しようとする執着から解放されたとき、人はようやく前に進める。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』のラストは、謎の回収ではなく、退屈や虚無にどう向き合うかという生き方の選択を突きつけて終わる。映画を観終わった観客が“まだ考え続けてしまう”のは、まさにその問いを自分の問題として引き取らされるからだ。
退屈をどう生きるかという問い
『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、サスペンスの皮をかぶった「退屈と妄想の実験装置」だった。主人公サムの停滞した日常をそのまま観客に体験させ、無意味な断片に意味を探させ、最後には答えを与えない。普通なら欠点とされる部分を、あえて武器にしている。
観客は「犬殺しの謎は?」「あの暗号は?」と考え続ける。だが映画が投げかける問いは、真相そのものではない。無意味に見える日常をどう受け止めるか。答えのない世界でどうやって生きるか。その哲学的な課題こそが、作品の核になっている。
サムは未練を断ち切り、虚構に絡め取られるのをやめ、現実に生きる選択をした。観客に残るのは、すっきりとした解決ではなく、“考えすぎてしまう快感”と、“虚無を抱えたまま前に進むしかない”という後味だ。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、退屈を妄想に変える映画であり、退屈そのものをどう生きるかという問いを投げつける映画だ。だからこそ、退屈なのに中毒になる。